2019年3月17日に79歳で亡くなられた内田裕也さんのお別れ会で、娘の内田也哉子さんが読んだ弔辞(謝辞)が感動的で大きな反響を呼びました。
そしてその感動的な弔辞を読み上げる姿を見て、2008年に亡くなられた赤塚不二夫さんの葬儀で読まれた、タモリさんの弔辞を思い出しました。
改めてこの2つの感動的な弔辞を振り返ってみたいと思います。
内田也哉子 弔辞(謝辞)全文
まずは、内田裕也さんのお別れ会で娘の内田也哉子さんが読み上げた弔辞の全文をご紹介します。
本日はお忙しいところ、父、内田裕也のロックンロール葬にご参列いただきまして、誠にありがとうございます。
親族代表として、ご挨拶をさせていただきます。
私は正直、父をあまりよく知りません。「わかりえない」という言葉の方が正確かもしれません。
けれどそこは、ここまで共に過ごした時間の合計が数週間にも満たないからというだけではなく、生前、母が口にしたように「こんなにわかりにくくて、こんなにわかりやすい人はいない。世の中の矛盾をすべて表しているのが内田裕也」ということが根本にあるように思えます。
私の知りうる裕也は、いつ噴火をするかわからない火山であり、それと同時に、溶岩の狭間で物ともせずに咲いた野花のように、清々しく無垢な存在でもありました。
率直に言えば、父が息を引き取り、冷たくなり、棺に入れられ、熱い炎で焼かれ、ひからびた骨と化してもなお、私の心は、涙でにじむことさえ戸惑っていました。
きっと、実感のない父と娘の物語が、はじまりにも気付かないうちに幕を閉じたからでしょう。
けれども、今日、この瞬間、目の前に広がる光景は私にとっては単なるセレモニーではありません。
裕也を見届けようと集まられたお一人、お一人が持つ父との交感の真実が、目に見えぬ巨大な気配と化し、この会場を埋め尽くし、ほとばしっています。
父親という概念には、到底おさまりきらなかった内田裕也という人間が叫び、交わり、噛みつき、歓喜し、転び、沈黙し、また転がり続けた震動を、皆さんは確かに感じ取っていた。
「これ以上、お前は何が知りたいんだ」きっと、父もそう言うでしょう…。
そして、自問します。私が唯一、父から教わったことは何だったのか?
それは、たぶん大げさに言えば、生きとし生けるものへの畏敬の念かもしれません。
彼は破天荒で、時に手に負えない人だったけど、ズルイ奴ではなかったこと。
地位も名誉もないけれど、どんな嵐の中でも駆けつけてくれる友だけはいる。
「これ以上、生きる上で何を望むんだ」そう聞こえてきます。
母は晩年、自分は妻として名ばかりで、夫に何もしてこなかったと申し訳なさそうに呟くことがありました。
「こんな自分に捕まっちゃったばかりに…」と遠い目をして言うのです。
そして、半世紀近い婚姻関係の中、折り折りに入れ替わる父の恋人たちに、あらゆる形で感謝をしてきました。
私はそんな綺麗事を言う母が嫌いでしたが、彼女はとんでもなく本気でした。
まるで、はなから夫は自分のものという概念がなかったかのように。
勿論、人は生まれもって誰のものでもなく個人です。
れっきとした世間の道理は承知していても、何かの縁で出会い、夫婦の取り決めを交わしただけで、互いの一切合切の責任を取り合うというのも、どこか腑に落ちません。
けれども、真実は母がその在り方を自由意志で選んだのです。
そして、父もひとりの女性にとらわれず心身共に自由な独立を選んだのです。
2人を取り巻く周囲に、これまで多大な迷惑をかけたことを謝罪しつつ、今更ですがこのある種のカオスを私は受け入れることにしました。
まるで蜃気楼のように、でも確かに存在した2人。
私という2人の証がここに立ち、また2人の遺伝子は次の時代へと流転していく…。
この自然の摂理に包まれたカオスも、なかなか面白いものです!
79年という永い間、父が本当にお世話になりました。
最後は、彼らしく送りたいと思います。
Fuckin’ Yuya Uchida. Don’t rest in peace. Just Rock’n Roll.
文字数にして1400ちょっとの文章ですが、その中に内田裕也さんの人となりや、79年間の人生が、内田也哉子さんなりのロックな表現で語られていました。
時折言葉の端々に、普通とは言えなかった親子関係を皮肉るようにも思える表現があり、しかしそれは最高のリスペクトでもあるようにも感じました。
弔辞にカオスなんて言葉が似合うのは内田裕也さんくらいで、そして弔辞にカオスなんて言葉を使うのは、やはり内田裕也さんの血を受け継いだ娘の也哉子さんだからでしょうか。
最後の「ファッキンユウヤウチダ」なんて、もうこれ以上に裕也さん対する愛情や感謝を表す言葉はないでしょう。
とても素敵な言葉たちでしたね。
タモリの赤塚不二夫に捧げる弔辞全文
漫画家の赤塚不二夫さんが、2008年8月に72歳で亡くなりました。
赤塚さんは、手塚治虫さんや石ノ森章太郎さんなど日本を代表する漫画家が入居していたことで有名な「トキワ荘」の出身者で、「天才バカボン」や「おそ松くん」などの多くのギャグ漫画を世に送り出しています。
そんな赤塚さんは、まだ無名だった頃のタモリさんの才能を見込んで、物心両面で支援しました。
そんな赤塚さんの支援もあり、日本の芸能界BIG3のひとりにまでなったタモリさんが、赤塚さんの葬儀で感動的な弔辞を述べました。
全文は次の通りです。
弔辞
8月の2日にあなたの訃報に接しました。
6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。
われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第1世代と言っていいでしょう。
あなたの今までになかった作品やその特異なキャラクター。
私たち世代に強烈に受け入れられました。
10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。
何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーで、ライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。
その時のことは今でもはっきりと覚えています。
赤塚不二夫が来た。
あれが赤塚不二夫だ。
私を見ている。
この突然の出来事で、重大なことに私はあがることすらできませんでした。
終わって私のところにやってきたあなたは、「君はおもしろい。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるから、それに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションに居ろ」と、こう言いました。
自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。
それにも度肝を抜かれました。
それから長いつきあいが始まりました。
しばらくは毎日、新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。
いろんなことを語ってくれました。
お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと、ほかのこともいろいろとあなたに学びました。
あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。
そして仕事に生かしております。
赤塚先生はほんとうに優しい方です。
シャイな方です。マージャンをするときも、相手の振り込みで上がると、相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。
あなたがマージャンで勝ったところを見たことがありません。
その裏には強烈な反骨精神もありました。
あなたはすべての人を快く受け入れました。
そのためにだまされたことも数々あります。
金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。
しかしあなたから後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せる、あの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。
あなたは生活すべてがギャグでした。
たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも、目からはボロボロと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんのひたいをピシャリとたたいては、「この野郎、逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。
あなたはギャグによって物事を無化していったのです。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。
それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。
この考えをあなたは見事にひとことで言い表してます。
すなわち、「これでいいのだ」と。
いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い浮かばされています。
軽井沢で過ごした何度かの正月。
伊豆での正月。
そして海外へのあの珍道中。
どれもが本当に、こんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。
最後になったのが、京都五山の送り火です。
あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
あなたはいまこの会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。
そして私に「おまえもお笑いやってるなら、弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。
あなたにとって死もひとつのギャグなのかもしれません。
私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは、夢想だにしませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、ひと言もお礼を言ったことがありません。
それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。
あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。
しかしいまお礼を言わさしていただきます。
赤塚先生本当にお世話になりました。ありがとうございました。
私もあなたの数多くの作品のひとつです。
合掌。
平成20年8月7日
森田一義
タモリの弔辞【動画】
タモリの弔辞白紙の真相
「私もあなたの数多くの作品のひとつです」
最後のこの一文に、赤塚さんに対する敬意と感謝がすべて込められていると感じました。
そして当時この弔辞は、あることが注目されました。
それは、タモリさんが白紙の弔辞を読み上げていたというものでした。
弔辞を読むタモリさんの手元を映した映像では、確かに白紙のように見えます。
ただ、果たしてあんなに素晴らしい弔辞をアドリブで読み上げることができたのかと当時は様々な憶測を呼びました。
そのことについて、タモリさんの口から真相が語られることはありませんでした。
ですが、後日元笑っていいとものプロデューサーを務めた横澤彪(たけし)氏が直接タモリさんから聞いた真相を語っていました。
ある方の葬儀でタモリさんとお会いになりその時に聞いたそうです。
そして弔辞は本当に白紙だったそうです。
元々は紙に書く予定だったのですが、前日に酒を飲んで帰宅したら面倒臭くなり、そして「赤塚さんならギャグでいこう」と白紙の巻物を読む勧進帳をまねることにしたそうです。
※勧進帳とは歌舞伎の演目の一つで、簡単に言うと弁慶が何も書いていない巻物をさも書いてあるように読み上げる物語です。
そして勧進帳を選んだのにはもう一つ理由があり、勧進帳の物語の中で富樫左衛門という人物がいるのですが、当時のタモリさんのマネージャーもトガシさんと言う方だったので、そこから思いついたのだと思います。
弔辞の中で『私に「おまえもお笑いやってるなら、弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。』と語ったように、その答えが弔辞で勧進帳を演じることだったんですね。
博識のタモリさんらしいギャグですね。
まとめ
弔事に対してこんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが、内田也哉子さんしかり、タモリさんしかり感動的な文章には、必ず人の心に響く素晴らしいオチがついています。
「ファッキンユウヤウチダ」
「私もあなたの数多くの作品のひとつです」
こんなに記憶に残るオチのある弔辞は、なかなかないと思います。
そして、感動的な弔辞が生まれたのは、内田也哉子さんもタモリさんも元から常人よりも長けた才能があったのは勿論、故人の有り余る生前の個性によって引き出されたものでもあると思います。
也哉子さんとタモリさんの弔辞は故人と共に作り上げた、一つの芸術作品のように感じました。
こんな素晴らしい弔辞を読んでくれるような人と出会えたら素敵ですね。
そしてこのような素敵な弔辞を読んでもらえるような人生を送りたいものですね。
それでこの辺で失礼します。
コメント
タモリさんのは、
なぜかじんわり涙が溢れてきます。
故人に対する、真っ直ぐな愛情を感じます。
也哉子さんは、
良くも悪くも恵まれた方。
故ご両親からの愛情、周りの人からの好意。
きっとこれからも自分をしっかり受け入れて
生きて行かれるのだなぁ、と思います。